FlatfishGardenの泡 2nd

KOSHU178の日記

スペクタクルの社会

スペクタクルの社会 (ちくま学芸文庫)

スペクタクルの社会 (ちくま学芸文庫)

実は未読。(どころか未購入)(^^;;
「「非国民」のすすめ/斎藤貴男筑摩書房をパラパラめくっていたら、”反戦落書き事件”の落書きされた言葉のひとつが「スペクタクル社会」だった。この言葉、ちょっと前に自分の掲示板に書いた「社会ニュースがテレビやネット上の出し物のように感じられて現実感がない。現実感がないうちにどんどん事態が進行している。」状況を上手く表現した言葉と思われる。


ネーミングは大事だな。と、思ったので、とりあえず書いてみた。

その掲示板に書いた自分の文章を読み直してみると、あまりに素朴な「感想」に過ぎなかった。「スペクタクルの社会」が(多分)警鐘している社会状態に住む普通の人って感じ。なんか変だと思いつつ「その先」を追求してない感じ。ちなみにこの投稿は、スマトラ津波の2週間後くらいに書いたもの。

****以下転載*******

使い古された言い回しですけど、
自然を相手にすると人間は本当にちっぽけな存在だと実感させられます。
地震、台風、津波、、、地球自身にすればくしゃみとか身震い程度の事で
僕らは右往左往するしかないですね。


実際に被害にあった人々にしてみれば、(命を含めて)今まで築き上げてきた
色々なものが一瞬にして奪い取られてしまうのだから、
当然右往左往どころぢゃないんだけど、テレビでそれを知っても
自分の心の右往左往は発生しないってのは僕にとっても事実です。


ところで、唐突ですが、
10年以上前に「バーチャル・リアリティー」って言葉が流行りましたね。
現実と混同しちゃうくらいに高性能になりそうな端末ってなことで。(だっけ?)
このところその言葉はあまり聞かないけど研究は続行してるんでしょう。


んで、僕がこの数年感じるのはその逆の「現実のバーチャル化」みたいな感覚。
単純な話では、例えば掲示板やメールで連絡をとりあって何かをやるとき。
飲み会でもライブでも仕事でも、もちろん、ちゃんとそれは実行されるんだけど
同報メールで待ち合わせしておいて、実際に人が集まるとびっくりしちゃう感じ。
現地に行ってもなんだか地に足がついてないような感触がどこかにあるんです。
まぁこれは、登場したての電話やファックスを信じられなかったおじさんと同じか。


それから、ネット上で様々な情報を得れば得るほど全ての情報が均質化というか
等価になっちゃうというか、うまく言えないのですが、
アメリカの大統領選挙も中越地震も、理解不能な殺人事件も
台風も、そして今回の津波
HDDのクラッシュ情報も、音楽ソフトのバグレポートも、
景気の動向も、失業率のわずかな変化も、有名レストランのメニューも、
ピザ作りのレシピも、オーディオ製品の口コミ掲示板も、
レコードの売り上げ高の激減も、廃業させられるジャズ喫茶も
クラシック作曲家の裏話も、ジャズプレーヤーの舞台裏も、
近所のライブハウスのスケジュールも、有名ライブハウスのスケジュールも
友達の日記も、有名人の日記も、全然知らない人の日記も、
み〜んな自分のディスプレイに投影されたウインドウの1つってのが
ふと気がつくとなんだか妙な感じです。


もちろん、自分にとってそれぞれの意味や意義は全然違うはずなのだけど、
そのデコボコが実際より小さくなっているのではないだろうか。
おそらく自分の処理能力を超えた情報量や理解できない情報内容は、
現実を「実感」する感覚を麻痺させる。麻痺したままの頭で
単に報道を「見る」ことによってその情報は処理”済”として消費される。
結果として、本当に自分の体にしみ込んでくる「リアル量」の総量が
逆に相対的には減ってはいないだろうか。なぁんて思ったりします。


オウムの連中がやった事、阪神地震、NYのテロ、アフガンやイラク、、
この10年の出来事は強烈で、
現場にいなかった自分には現実感がない光景として焼き付いてます。
サリンの撒かれた地下鉄には日常的に乗っているにもかかわらず。


しかしまあ、この情報天国を十分に活用して、ネットがなければ何十年も
かかったであろうレベルまで自分を高めている人が(おそらく身近にも)沢山いて
世界レベルでは間違いなくその人数は膨大で、バリバリそれを消化する
「人類のニュータイプ(?)」がどんどん生まれているわけでこりゃまさに革命的。
(ん?それなのに戦争は終わらない。)
だから、つらつら書いてきた「違和感」って、単に自分がついていけなくて、
ぼ〜ぜんとしているだけってことなのでしょう。


もし自国が戦争をする事になっても、やっぱり現実感がないのかな。
いかんいかん、、、なんか暴走しちまった。(恥)